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プロフィール あおじゅんの半生

あおじゅんの半生

 

生まれた当時の故郷

 

 

 

私が あおじゅん  です

 

 

人はだれでも生れてくる時期や場所、そして親を指定することはできません。

 

 

決してお金持ちの家ではありませんでしたが、世界の中では最も安全と言われる日本に、戦争のない時期に生れることができたことは、世界の何十億の人々からは羨ましがられるものと思います。

 

 

ですので、まずは親に感謝です。

 

 

私は長崎県の小さな島で生まれました。 佐世保から船で一時間半程度でしょうか。

 

 

 


引っ越しばかり

 

 

島の中で済むことならいいのですが、ちょっとしたことでも船で佐世保へ。

 

 

この船が揺れるんですね。船酔いに慣れることはありませんでした。

 

 

6歳までしか居なかったのでそれほど多くの記憶はありませんが、ご飯のおかずは魚が多かったと思います。

 

 

父親はサラリーマンです。 母親は専業主婦、あの時代は共働きのほうが少なかったのではないでしょうか。

 

 

島で一番の文明は、バス です。

 

 

私は大きくなったら バスの運転手 になろうと思いました。

 

 

あんなに大きなものを自由に動かせるのが、カッコ良かったんです。

 

 

引っ越しが好きな家庭で、その島の中だけでも つまり 6年の間だけで 最低でも3回は引っ越ししてます。 

 

 

私たちは長崎を出て、兵庫県の尼崎で小学校にあがりました。

 

 

それから群馬県の前橋 福岡県飯塚市 博多 名古屋と引っ越し、通った小学校は5校。

 

 

名古屋で中学校にあがり、中2の時に両親が離婚。 父親と兄の三人暮らしが始まりました。

 

 

この離婚話をすると長いのですが、家計が苦しくて母が勤めに出るようになってからおかしくなっていきました。

 

 

私は母を恨みました。

 

 

と同時に、自分の妻を絶対に働かせてはならないと、子供心に思ったものです。

 

 

そのためにも、充分な給料を貰わなければと、頭に叩き込んだんです。

 

 

それでも精神的に幼かった私にとって、母親のいない毎日は辛いものでした。 

 

 

当時世の中では、天地真理の「ひとりじゃないの」や南沙織の「17才」、小柳ルミ子の「私の城下町」が流行っていたころです。

 

 

今もそれらの曲はとても好きですが、同時に辛かったことも思い出されます。

 

 

 

 

料理なんか作ったことのない父親は、会社でみそ汁のお椀一人分当たりの味噌の量は、梅干し一つくらいと教わってきて、毎日晩御飯を作ってくれました。

 

 

どんな理由を言って教えてもらったのか、想像すると辛いです。

 

 

当時売り出したばかりのシーチキンの缶詰、これをほぐしてスライスしたキュウリと混ぜ、マヨネーズ゛で和えただけのもの おかずはこれが一番多かったと思います。

 

 

中2の終わりころ、環境を変えようということで横浜に引っ越します。

 

 

 

両親の離婚がもとで、いじめにあう

 

 

 

横浜でも私は、家庭の事情がすぐにばれたようで、そのことでいじめに遭うようになりました。

 

 

そのうち父親は長期の出張が増え、高校生の兄は帰りが遅く、私は3DKに独り暮らしのようなものでした。

 

 

一人で何をやっても怒る人がいない。

 

 

これはあの頃の年代の男子にとってはものすごい誘惑です。

 

 

父親は、そんなことはわかっていたと思うのですが、毎月のお小遣いのほかに一か月の生活費と言って、お小遣いの何倍もの金額を置いて出張に出かけました。

 

 

責任を感じました。自分のお小遣いから出すべきお金と、生活費から出すお金を区別するようになりました。

 

 

なので、お小遣いは底をついているのに生活費が全然減ってない時もあって、逆に父親が、「ちゃんと食べてるのか」 「服は買ってるのか」と帰ってくるたびに心配してくれました。

 

 

私は、『ごまかすことでの一時的な喜びはあまり嬉しくない』
という価値観を持っていたようです。

 

 

「信頼されているが故の責任」、いいことを学ばせてもらえた時期でした。

 

 

ですが、食べ物といえばシーチキンや納豆、少しずつ出回り始めた冷凍食品。そんなものばかりを食べていました。

 

 

当時の冷凍のコロッケは、油の中で衣が破れることが多く失敗も繰り返しましたが、そのうちに美味しそうなきつね色に ホクホク サクサクに揚げられるようになっていました。

 

 

学校では、家庭のことで相変わらずいじめられており、

 

授業中に先生がいる時でも 「夜逃げ 夜逃げ」と母親がいなくなったことや、
夜逃げ同然に横浜に引っ越してきた ようなことを言われていました。

 

 

先生も、特に止めさせるでもありません。

 

 

何度も転向したことは既に書きましたが、それぞれの学校に思い出があります。

 

 

ですが、この横浜の中学にだけは、全く情が湧きません。

 

 

この学校と先生を、そしてずっと母を恨みましたね。

 

 

 

夢の高校生活 大学も出て働き先は・・・

我が母校

 

 

 

高校をどこにするか決める時は父親は体調を壊し入院中で、自分一人で決めました。 

 

病室に行って報告をしました。

 

そこに合格して新しい環境に変わることを想像するだけで、嬉しくて嬉しくてわくわくしたものです。

 

 

自分を知らない人ばかり、ゼロから出発できることがこれほど有り難いものなのかと 中3の少年は未来に希望を感じていたのでした。

 

もう、家庭のことで心ない言葉を言われることも無くなるでしょう。

 

 

この頃からでしたか、寝る時に妙に身体が動かなくなりました。

 

俗にいう『金縛り』ですね。

 

それからは、この世にありそうもない物を見たり
誰もいないのに声が聞こえたりと

 

神秘的な世界も開かれてきました。

 

 

 

暗黒の中学時代から打って変わって高校時代は、楽しいばかりの3年間を過ごし、父親の頑張りで大学も出してもらえました。

 

 

大学は、電気や通信が好きだったせいで、通信工学を専攻し順風満帆な人生になるかと思いきや、学生時代のバイトが縁で、就職はレストラン。

 

 

父親は驚きました。
自分も驚きました。 
なんせ気が付いたらフライパンを振ってましたから。

 

 

12時間以上の仕事が当たり前の世界で10年余りが経ち、普通のサラリーマンをやってみたいというぜいたくな思いが頭の中を支配するようになりました。

 

 

せっかくこの世界にいたのだから、店を出す という選択肢もありましたが、自分だって腹が減ってご飯を食べたいときに人のご飯ばかりを作るという毎日が嫌になっており、調理師の資格を取って自分の人生の証を作ってから転職しました。

 

 

ちょうど阪神淡路大地震やオーム真理教のサリン事件があった時期で、世の中は、大不況に転落していく時でした。 

 

 

通販会社で一からやり直すこととなりましたが、やがて会社は倒産。 
いくつもそんな転職があって、気が付けば あっという間に定年。

 

 

焦りました。 

 

 

これで終わり ?

 

 

いやいや、このまま隠居できるほどの貯えなんてありません。

 

 

何をやろうか

 

 

営業職 ? コックに戻るか ?

 

 

役に立ちたい

 

今まで迷惑を掛け続けてきた分

 

何かしらの奉仕をしたい

 

それが、今までの人生の謝罪にもなれば

 

 

まさに終活

 

その終活として選んだ仕事は

 

介護職でした。

 

 

 

介護とはどんな世界なのか

 

どのくらい楽しいのか

 

どのくらい辛いのか

 

役に立てているのか

 

 

あおじゅんの実体験をお伝えします。

 

 

 

 

 

 


 

 

 


 
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